「もう私でいいじゃないですか。」
その一言が耳に残って離れない。あの夜から、もう数年が経つというのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。
職場の彼女
あれは、僕が38歳、彼女が34歳だった頃のことだ。僕はそのとき、人生のどん底にいた。婚約破棄されてから2ヶ月しか経っていなかった。あまりにショックが大きくて、毎日をどうやって過ごしていたのかもよく覚えていない。そんな僕を励まそうと、会社の先輩や後輩がホームパーティーを開いてくれた。
そのホームパーティーには、あの女性も参加していた。彼女とは同じ会社で働いていたが、会うのは月に一度の会議くらいだった。飲み会で何度か話したことがあるくらいの関係で、特別に親しいわけでもなかった。
正直に言うと、彼女のことを「女性」として意識したことはなかった。
容姿は地味で、髪はいつもおとなしめのスタイル。化粧も控えめで、華やかさとは無縁だった。性格もどちらかと言えば目立たず、控えめ。僕のタイプとは正反対で、性格も合わなそうだなと思っていた。ただ、彼女の頭脳明晰なところは素晴らしいと思っていた。仕事ぶりは正確で無駄がなく、冷静な判断力を持っている。その点は、正直尊敬していた。
そんな彼女と僕が、あの夜、あんな会話をすることになるとは思ってもみなかった。
ホームパーティー

ホームパーティーは、金曜日の仕事終わりに開催された。僕のアパートに、先輩と後輩、そして彼女を含めた5人が集まった。料理はピザと中華のオードブル、お酒もビールやワイン、日本酒まで用意して、19時には宴が始まった。
「最近どう?」
「仕事忙しい?」
「恋愛のほうはどうなんだ?」
そんな話をしながら、みんな徐々に酔いが回っていく。僕自身は、正直気持ちが晴れるような気分ではなかったが、こうして誰かと一緒にいるだけで少しだけ気が紛れるような気がしていた。
21時を過ぎるころには、全員がかなりいい感じに酔っていた。酔いが回ってくると、自然と話題は恋愛や結婚の話になる。
「結婚とか、どう考えてる?」
「もうそろそろ本気で考えなきゃなあ…」
そんな話をしているときだった。
彼女が、僕の方をじっと見てこう言った。
(彼女)「もう私でいいじゃないですか。」
(僕)「……え?」
耳を疑った。
聞き間違いかと思った。でも彼女は僕の目を真っ直ぐに見ていた。
「え、どういうこと?」と僕が聞くと、彼女は真顔で言った。
(彼女)「35歳までには結婚したいんです。だから、もう私でいいじゃないですか。」
彼女は酔っていた。表情は少し赤らんでいて、声もやや滑らかだった。でも、彼女の目には迷いがなかった。
僕は一瞬、心がざわついた。
「結婚したい」と言われること自体は悪くない。むしろ、好意を持たれているとしたら嬉しいことかもしれない。
彼女の心理

でも、その時、僕はすぐに気づいた。
彼女は僕に特別な感情があるわけじゃない。
「35歳までに結婚したい」
その目標を達成するためなら、僕でなくてもよかったのだ。
証拠に、彼女はその後、30分ほど遅れてやってきた後輩にも同じことを言ったのだ。
(彼女)「もう○○さん、私でいいじゃないですか。」
その瞬間、僕の気持ちは冷めた。
誰でもいいから、とにかく35歳までに結婚したい――。
彼女の焦りや不安が痛いほど伝わってきた。
もちろん、その気持ちはわかる。
特に女性にとって、35歳という年齢が持つ重みは、僕が思っている以上に大きいのだろう。結婚適齢期のプレッシャー、親や友人からの期待、周囲が次々と家庭を持っていく中で、自分だけが取り残されていく焦燥感。
でも、だからこそ「誰でもいい」というのは違うと思った。
結婚はゴールではない。その先に長い人生がある。
一度きりの人生を「とりあえず」で決めてしまっていいはずがない。
「酔ってたんだよね…」
そう思おうとした。でも、彼女のあの時の真剣な目を思い出すと、それだけでは済まないような気がした。
その日は23時でお開きになった。
彼女とはその後も同じ職場で顔を合わせる機会があったが、特にその件について触れることはなかった。
そして今・・・
そして――
彼女は今、38歳になろうとしている。
あの夜から数年が経ったが、彼女はいまだに独身だ。
35歳までに結婚するという目標は達成できなかった。
でも、最近の彼女を見ていると、以前よりも少し落ち着いているように感じる。
「結婚しなきゃ」という焦りが、少し和らいだのかもしれない。
それがいいことなのかどうかはわからない。
でも、僕は思う。
結婚は、相手を「誰でもいい」ではなく、「この人しかいない」と思えたときにすべきだと。
彼女もいつか、そう思える相手に出会える日が来るのかもしれない。
そして僕自身も、あの婚約破棄の痛みを乗り越え、「この人しかいない」と思えた相手と結婚できたのだから。
ただ、彼女の「もう私でいいじゃないですか」という言葉が、時々頭をよぎる。
その度に僕は、あの光景が鮮明によみがえってくる。
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